ギニアビサウからの手紙 第2回 【下】

2008年03月04日

スタディーツアーに同行した「戦友」カヨちゃんのことを紹介しましょう。

初めて参加した彼女は、兵庫県在住の大学2年生。ほっそりした体つきで、ちょっと  心配でした。でも、着いて間もなく元気になり、よく食べ、よく寝ていました。

かつてのスタディーツアー参加者の多くが「ショックを受けた」というシャワー室にも抵抗がなかったようです。

積極的で好奇心旺盛。最初は英語、そのうち男の子から教えてもらった(電気が通じ ない中、ろうそくの光で一緒に勉強したのです)クレオール語まで使ってみんなとしゃべっていました。

今回、WFP(世界食糧計画)ギニアビサウ担当責任者のMさんを尋ねました。Mさんは日本人です。着任後まだ8カ月ですが、なにしろアフリカ滞在23年、マラリアには  10回かかったという方ですから、私たちはたくさんの有意義な話を聞くことができました。

ギニアビサウの山積した問題―

1人あたりのGNPが140米ドルであること(96年には260米ドルだった)

HDI(人的開発指数)がデータのある177カ国で下から3番目であること

主要輸出品のカシューナッツが値下がりしていること

刑務所がないこと(内戦で破壊された)

国連の平和構築委員会でギニアビサウの諸問題を取上げるようになったこと

WFPは395の学校に給食サービスをしていること・・・

実際、私たちの滞在中、研修センターのあるルアンダ地区の電気は、まったく通じませんでした。たいてい、滞在中1-2回は通じるのですが、今回はダメでした。

「やはり教育しかないでしょうね。民度を高めないと」とおっしゃっていました。

WFPの「現場主義」にひかれて入ったというMさんは内戦中(98-99年)も爆弾の飛び交う首都ビサウ市内で、国内避難民に食料を配布したのです。

今奥様とともにギニアビサウに再赴任して精力的にお仕事をなさっています。こういう 日本人がいることを、私は誇らしく思いました。

<私はこの国で一体何ができるのだろうか。この国を愛することができるのだろうか>

その答えはいっぺんにでたわけではありません。

何をするか、ということはそれなりにスムーズに決まりました。「女性と子どものための 事業をしよう」。それで、最初に女性のための洋裁・識字学校を始めたのです。ですが、実際にギニアビサウの人たちと付き合っていくということは、想像以上に難しいことでした。

私たちは当初、いろんなものを、本当によく盗まれました。タオル、靴下、衣類、マットレス、ミシン、ドア、発電機、お金(小銭から数千ドルという大金まで)―などなど。バンデン市場(別名「泥棒市場」) にそれらが売られていたこともありました。

研修センターを建てる時は大変でした。それはエスペランサを設立する前のことで、 初めて入国してまだ1年くらいのころ。ギニアビサウの言葉や習慣もわかっていません。そんな中で土地を買い、大きな建物を造ろうというのですから。韓国人の宣教師さんと協力して進めました。その方の凄まじい「開拓精神」がなければ、私たち日本人だけでは到底できなかったと思います(ちなみに彼のあだ名は「ジャイアン」でした)。

その時のことです。建設資材を買い、運んでもらった男の人に労賃を払おうとすると、 事前に約束した倍の金額を求めてくるのです。双方折れず、だんだん険悪な雰囲気になってきました。

「きさま、なめんなよ、いいかげんにしろ」

そう日本語で怒鳴ってみました。いえ、正確に言うと、我慢し切れなくて怒鳴ってしまったのです。

相手もこちらの怒りを察してあきらめたのか、約束の金額を受け取って引き下がってくれました。

またある時、仲間のヨシミさんは、そういう「嘘つき男」をついに殴ってしまいました。

ヨシミさんは女性です。だから事なきを得ましたが、普通、白人(私たちも、現地の人に とっては白人なのです)が黒人を殴ると、大変なことになります。そういう歴史がありますから。長い間支配され、搾取されてきた国と付き合うことに、何度も難しさを感じました。

あの時―1999年11月3日午前9:09―のことは今でも覚えています。

私たちはダカールから船と乗合タクシーを乗り継いでギニアビサウに入りました。内戦終了後初めてでした。

セネガルの税関では「メルシー(ありがとう)」ですが国境を越えてギニアビサウの税関では「オブリガード」。2年ぶりの、懐かしい懐かしいクリオール語、ギニアビサウの豊かな緑。

この「11月3日午前9:09」は、私の初めての子どもが生まれた日時なのです。不思議な、また厳粛な気持ちにさせられました。

このころです。<ギニアビサウを絶対に捨てない>と心定めをしたのは。

いやなことはなぜか忘れ、ギニアビサウが故郷のように思えてきたのです。

傲慢な物言いだと、お叱りを受けそうですけれど。

でも・・。いつも手探りです。今でも模索しながらギニアビサウと関わり続けています。

今回初参加のカヨちゃんが、里親事業の事務などに責任を持ってくれたので、大いに 助かりました。

何よりも、帰り際に「ギニアビサウが好きになった。必ずまた来るね」と挨拶していたことに、私はとても嬉しく思いました。

たった2週間の旅でしたが、今回も何とか無事に終えることができました。

みなさん、オブリガード!

NPO法人 エスペランサ

ギニアビサウ共和国支援の会