1982年にさかのぼります。初めての子どもがお腹の中にいる時のことです。
マリアン・アンダーソン(注:指揮者トスカニーニが「100年に1度の声」と絶賛したアフリカ系アメリカ人。1897-1993)という歌手の黒人霊歌のレコードを、たまたま 聞く機会があったんです。
ジャケットには、奴隷となった黒人たちが綿花を摘んでいる絵が描かれていました。
彼女の歌声を聞きながら、こんな思いが突然、私を襲いました。
<かつて、黒人たちは強制的に新大陸に連れてこられたけれど、私たちはその罪滅ぼしをしなければならない。
強いられて、ではなく、自ら進んで、アフリカに行って何かをしなきゃ・・>
まったく唐突な衝動だったんですけれど、彼女の声が、それだけ魂に染みたのでしょう。
この思いは、ずっと心から離れませんでした。
実際にそのチャンスが訪れたのは、1994年のことです。この時、私をアフリカに押し出す「事件」がありました。それはYさんという男性との出会いです。
彼は、イラクを皮切りに約20年間中東地域に住み、ある新聞社の特派員をしていました。彼の言葉は今でもはっきりと覚えています。
「向こうはね、暑い時の気温は50℃にもなる。例え話じゃなく、本当に車のボンネットで目玉焼きができるんだ。『日本的情緒』とは無縁、まったく違う環境と歴史の国が あるんだと思い知らされたよ。
イラクには4年間いたが、13回も家を替わった。替わらざるをえなかった。外国の 支配を受けた歴史がある国は、ある意味『屈折』している。猜疑心が強く『外国人は スパイだ』という感じで、友人になるのが難しいんだ。
単身で過ごしたその期間、1人で夕食を取っていると、いつも涙がこぼれてきた。 机に頭をぶつけてでも自分の存在を感じたかった。だから、小さな虫にすら慰められたこともあったよ」
「日本人は『世界』に関心がない。湾岸戦争にしても、本当に遠い国での出来事といった感覚だ。
7年前、一時帰国した時に見た日本人が、みんな同じ顔に見えた。向こうでは、いろんな人間がいろんな言葉をしゃべるのが普通だからね。
日本にいる限り、世界の事情は絶対にわからない。国際社会で生きるノウハウを 持っていない。『ノンキなお坊ちゃん』という感じがするよ」
こう話した後、しかし―と続けました。
「そんな日本人でもやれることがある。第3世界の人たちは『国のために献身しよう』という意識が乏しい。国が貧しく個々人も貧しいからその日を生きていくのが精一杯で、なかなか国力が発展しない。
その現状を何とかするには、公的なものに対して無私になる、というメンタリティが必要だ。われわれ日本人は、歴史的に身に付けている。『滅私奉公』という言葉があるでしょう?それですよ」
Yさんの話を聞き、今度こそ
<私は行かなければならない。家族に許してもらえるなら、行かせてもらいたい>
と、痛烈に思ったんです。
まず夫に話をしました。そこでOKしてもらった時から、「ギニアビサウ」が私たち 夫婦のライフワークになったようです。
3人の子どもたち(もう1人はまだ小さかったのです・・)には夫が話してくれました。
そして私が留守の間、子どもたちの世話をお願いするため、夫の両親の元を訪れました。
2人は一晩考えた末に、こう言ってくれたんです。
「わかった、行っておいで。若い時に、世界のために生きることはいいことだ」
すごいでしょう!2人のこの言葉に、私は今でも感動するんです。
さて、このようにして足を踏み出したわけですけれど、最初は、何というか・・「どうやったら私は、この国を好きになれるのだろうか?」と真剣に悩み、途方に暮れました。
「私はこの国で一体何ができるのだろうか?この国を愛することができるのだろうか?」
こう悩まざるをえない現実こそ、当初の、大きな大きな課題でした・・。
予想を超えたギニアビサウの現実だけでなく、私自身の問題として。
NPO法人 エスペランサ
ギニアビサウ共和国支援の会
0コメント