「まず安全 ぜいたく言えば 水 電気」
これはアフリカ駐在のある商社マンが作った川柳です。
99年初め、ギニアビサウは内戦の真只中にあり、その「安全」が保障されない状況でした。危険度5(最悪のレベル)だったのです。その時、私は隣国セネガルにいました。セネガルにも多くの人が戦火を逃れて来ていたのです。
そこの難民キャンプで、思いがけず開くことになった「洋裁教室」のお話です。
2月18日、私は日本で買ったコピー機と変圧器(日本財団の助成による)を抱えて セネガルに向かいました。そこで何か情報を得よう、また、あわよくば陸路でギニア ビサウに入国しようと考えながらの一人旅でした。
まず成田空港で試練です。10数キロあるコピー機は「機内持ち込みはできません」。
時間がない、相談する人もいない・・。
人目もはばからずスーツケースを開けて衣類等を全部出して、そこにコピー機と変圧器を詰めました。自分の衣類は最小限にして手荷物にし、残りは空港内の郵便局 から自宅に送り返しました。
スーツケースはかなりの重量オーバー。でもカウンターの女性担当者は、気の毒に 思ったのか見逃してくれました。
モスクワではスーツケースを乱暴に扱うだろうなと心配でしたが、仕方ありません。
<コピー機が壊れませんように・・・>と祈り続けました。だからでしょうか、モスクワ までの10時間のフライトの記憶がないのです。
セネガルに着いて試したら、コピー機は見事、動きました。万歳!
ダカールの事務所でNさん(協力関係にある日本人男性)と合流し、その後日本大使館を訪ねました。
首都ビサウで1月末に最大の戦闘があり、オッティホテル(5ツ星)がやられてしまったこと、多国籍軍が入りつつあること、日本はWFP(世界食糧計画)とUNDP(国連 開発計画)を通じて食糧援助をしたこと、ギニアビサウのUNDP臨時事務所が首都 ダカール市内のホテルにあることがわかりました。
そしてセネガルにもギニアビサウの難民キャンプがあること。
ここに難民キャンプがある!
早速UNDPとUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)まで足を伸ばして情報をもらい、2月25日にはチェス市(ダカールから東へ40キロ)の難民キャンプに行きました。
キャンプでは当時660人のギニアビサウ人が生活していました。UN(国連)の援助で1日1食は保障されているとのこと。人々は体育館のように大きいガラーンとした建物12棟に分かれて暮らしていました。
水道2つ、トイレは20、カトリックの祭壇1つ。
日本大使館の理事官は「ソマリア、エチオピア難民よりずっといい」と言っていましたが、難民生活で人々の顔には疲れがにじみ出ていました。
責任者のカルロスとセイナブにくっついて見学した後、彼らの要望を聞きました。
「女性たちは洋裁教室を希望している」。
え、本当?ほかにも足りない物だらけなのに・・。
「よし、ギニアビサウでやっていたのをここでやろう!」と思いました。
また、乳幼児の栄養状態が悪いので、彼らに食料を配ることにしました。
3月8日、UNの「世界女性の日」に再訪。その集会の中で私から洋裁教室のことを皆に話すと、とても驚かれました。
実施が決まったのは12日の午前10時。その日、サポートしてくれるヨロ・カン(セネガル人)が迎えに来たのは9時過ぎでした。チェス行きの出るバスセンターまで乗ったタクシーは、途中で2回エンジンストップ。チェスまで貸し切った車は、交通違反の ためにおまわりさんに捕まりました(1回だけ!)。
お昼の12時に難民キャンプ到着。やっと・・・。
ところが「午後3時までは電気がないよ」(ダカールで買ったミシンは足踏み式が見つからず電動式でした)。
釘を買ってきてミシン台を組み立てて待ちます。
3時前に発電機が作動し、先生のネネ・トゥーティがミシンを動かすと、拍手喝采でした。
ミシンは5台。難民の中から先生4人。管理はセネガルのNGOがしてくれて、私 たちは週1回チェスに行く。
とにかく、洋裁教室が始まりました。
15日には6歳までの子どもを対象に食料を配りました。
子どもよりもむしろ、お母さんの方が嬉しそうだったような気がします。
帰り際に「本当にありがとう!」とカルロスとセイナブ。
今までにもギニアビサウでいろいろとやってきたけれど、こんなに感謝されたことは なかったような・・・。
「力がなくて今はこれしかできないの。ごめんね」
「いや、あなたたちは希望(エスペランサ)をくれた!」と2人は見送ってくれました。
目まぐるしい毎日でしたが、随所に助けてくれる人がいて無事にことが進んだ、不思議な1カ月でした。
ですが、ギニアビサウに入ることは叶いませんでした。結局、再入国はこの年の 11月まで待たなければならなかったのです。
NPO法人 エスペランサ
ギニアビサウ共和国支援の会
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